感情を抱かれるかも

自分だけのために何か買ったモノはあるか?
衣類や小物類は別として、食べ物に関しては、必要に迫られて、コンビニでオニギリ、だとか、食パンだとか、そういう類のものは買う。
その他は、家族用として買う。
(自分の分はそれらを流用)
あるいは、頂いたモ活動場地租用ノ。
一人で外食は滅多にしない。
ソフトクリームぐらい。
時間調整にドトールコーヒーぐらいか。
ということは、わたしは、あまり食に関して思い入れがないようだ。
逆に、頂きモノを、いかに消費するか、という闘いになる。
賞味期限に追いかけられる、迫ってくる感じである。
食品ロスは敵。
食べ物を捨てるなど、絶対にしたくない。
アウトになりそうだと、冷凍庫に放り込む。
が、しぶとくその後に食べ切る。

こう言うと、頂き物に追われる?何言ってるの?贅沢な!と不快な感情を抱かれるかも知れない。
だが、個人的やりとりにおいても、その流れになる。
例えば、姑からいつも何かしら食べモノを頂いていた。
頂かないのはお金ぐらいなものである。
(→じつに余計なことを書いている)

ちなみに、お誕生日にはお祝い金を頂いていたが、お正月にはその5倍の金額、長寿玉を差し上げていた。(→これまた余計なことを、、、)
姑は、孫たち(外孫も)にも、お年玉をあげるので手元には残らないとは思うが企業禮品


日本では、お金のことをネチネチくどくどケチケチ言うのは品が悪いとされる。
日常において何かにつけてお金の話を出すのは、美しくない、タブーだと。
ではあるものの、お金の話は悪とは決めつけず、小学校でも、株式やお金の仕組みを教える機会が生じているようだが。

姑とわたしに関して言えば、お金を差し上げて、差し上げた人の裁量や好みで現物に交換し、個人的物流として還元される仕組みが出来上がっていた。
そして、ありがとうございます、とわたしは頭を下げることになる。
自分では決して買わないであろうものを頂くわけだから、やはり、ありがとうございます、なのだろう。
べつに、皮肉や憎しみ、意地悪根性で言っているわけではない。

物流って面白い。
モノのやり取り。
初めてわたしが姑たちと会った時、これは、〇〇さんから、それは△△さんから、両手いっぱいの紙袋から次から次へと出される包装された銘菓や嗜好品の数々。
びっくりした。
すごい文化だと。

日頃のご無沙汰をモノのやりとりで補完するのか、と加拿大移民新政策
あなたのことを大切に思ってますよ、という気持ちをモノで表現する??
しかも、義理の関係の人々。
わたしは衝撃を受けた。
この文化を自分で理解して飲み込むには時間がかかった。
地域、風土、世代(年齢)、慣習によるものなのだろうかと推測した。
一昔前は、冠婚葬祭にかける、エネルギーがすごいのは、どこの地もそうだった。
今は、結婚式すらしないこともある。
葬儀も密葬、家族葬
時代は移る。