世に旅立ってもよいと思っ

息子の嫁、、、いない。不在。未婚。
娘たちは結婚し、子供もいる。
いわゆる、昔で言うところの外孫ばかり。
この発想そのものが、家父長制を引きずり、古いのではあるが。

わたしが息子を産んだ時、周りは大喜びした。
特に舅の喜びようは一際だった。
わたしは、息子を産んだ段階で、もうわたしの役割を果たしたと感じた。
跡継ぎ製造機、お役目完了。
終了。ごくろうさま。

それはそうと、、、
今、孫は5人いるので、全員外孫であろうがなんであろうが、わたしはもういつあの世に旅立ってもよいと思っている。
(そういう人に限ってジタバタする)
無事、次々世代が存在するのを見届けた。
ただし、あの世に行く前に、家の中のぐちゃぐちゃ不要品の、最低、半分は処分しなければならない。
理想は不要品全部だが、理想が高すぎて挫折するのが見えている。

ちなみに、、、話を戻そう。
わたしが行く次の世界は、、、あの世の住まいなのだが、ものすごい大家族。
もう、嫁に来た時から完全予約制で、予約完了済み。
わたしは、あの世では最も新人になるので、先輩たちにイビられるか、イジられるか、大所帯の中で小さくなって永遠にいるのだろうか。
あの世に行けば、あの世が永遠だとすると、区切りがなくて困る。
あ、ここ、嫌、鞍替えしたい、引っ越したい、移住したい、と思ってもそれがあの世なら、次の場所が思い浮かばない。
生き返るわけにはいかない。
だから、どの宗教もあの世は最高であるよう、日々、信心せよという流れなのだろう。
信じるものは救われる。

あの世、予約席がぎゅうぎゅう詰めの大家族、大世帯である訳は、、、
たくさんのご先祖様を抱えていて所狭しと皆んな肩寄せ固まってお墓に寄り集まっている。
人口密度が高い。
お盆の時は先祖の皆さんは実家に里帰り。
わいわいガヤガヤ。修学旅行のよう。
仏壇の扉は開けているものの、わたしはあの世は見えない聴こえない人になって、この世で暮らす。

しかしこれは、宗教的な観点。
イエの意義、家父長制と重なる。
時代や国によっては、天皇陛下のために命を捧げたり、聖戦をしたり、宗教はものすごい力を持つ。
女性を家に縛り付ける政策や課税方法と同じ。